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韓国疑問史糾明委員会からのアピール
 去る7月22日付けの読売新聞には「アジアの平和と歴史教育連帯」なる団体の広告が掲載された。この団体は扶桑社の歴史教科書の採択に反対する韓国の団体である。広告の内容は次の通りである。

 盗人猛々しい韓国市民団体の意見広告

 「ともに東アジアの平和の担い手へ」
 扶桑社版歴史教科書の採択を憂う韓国市民の思い
 平和を願う日本の友へ

 この文は皆さんと心の友人になりたいと願う韓国市民からの希望と友情の手紙です。

 韓国と日本は数千年にわたって近しい隣人として過ごしてきました。両国は20世紀初めに支配と被支配の不幸な歴史も経験しましたが、いま私たちの前には新しい日韓関係の可能性が芽生えています。一日に1万人以上が両国を行き來するほど、私たちの距離は狭まりました。日本の歌を口ずさむ韓国の若者や、「韓流」ブームの主役となった日本の女性たち誰もが、お互いを身近な存在として感じるようになりました。

 ですが、韓国の私たちは時に悲しい思いにかられることもあります。韓国の人々が忘れたくても忘れられない歴史の痛みに、再び傷を与える出來事のためです。歴史をゆがめる日本の政治家の発言に、つらい体験をした私たちの両親や祖父母は心を痛めます。過去の侵略戦争や植民地支配を正当化する歴史教科書の登場は、子どもたちに不幸な歴史を引き継がせてしまうのではないかという恐れを抱かせます。

 私たちは、過去にとらわれるためではなく、和解と友情、平和な未來をひらくために、歴史を知ることが大切だと信じています。「知らない」ことが、時に人の心を深く傷つけてしまう場合もあるからです。

 日本全国で教科書採択が行われている今、「新しい歴史教科書をつくる会」による扶桑社の歴史教科書は、韓国の人々の心に暗い影を落としています。扶桑社の歴史教科書は、アジア諸国を共存のパートナーと見なさず、過去の侵略を正当化したり、戦争を賛美しているためです。韓国の私たちは、扶桑社の歴史教科書によって、日本の民主主義が後退し、韓日の友情と和解、アジアの平和が損なわれることに憂いています。

このような教科書が、日本の教育現場で使われることになってしまったら・・・韓国の子どもたちのパートナーである日本の子どもたちがどんな大人へと育つのか、日本が危ない国としてアジアを再び脅かしたりはしないか、韓国と日本が真の和解を果たした友として、ともに平和を創り上げることができるだろうか・・・。そういった心配から、日本の行方を不安の中で見守っているのです。

 平和を愛する日本の皆さん!私たちは4年前の教科書採択時、皆さんが「扶桑社のあぶない教科書NO!」を各地で叫び、戦争ではなく平和への道を選択されたことを鮮明に覚えています。平和を願う市民の小さな行動が日本全域に広がり、世の中を動かす力へと変わっていく様子を観ることができました。

 2005年のこの夏、皆さんはどのような選択をなさいますか。皆さんの大切な子どもたちにどんな教科書を手渡しますか。日本を見守る韓国とアジアの友人たちに、皆さんはどのような行動で応えてくださいますか。私たちは、日本が過去の被害国との歴史の葛藤を乗り越え、アジア諸国からの信頼の中で、ともに平和を創る友の国となってくれることを心から願っています。どうか歴史を歪めない教科書と平和を目指す教育を選ぶことでその最初のボタンをかけてください。不幸な過去をくり返さないために、子どもたちに平和な未来を与えるために!

2005年7月22日 韓国の友より、平和への希望を込めて



 果たして韓国に「日本人と心の友人になりたいと願う韓国市民」などいるのかという疑問はさておき、ここで語られている内容はしらじらしいの一言に尽きる。韓国政府は明らかにベトナム戦争を正当化・美化しているし、歴史教科書にはベトナム人虐殺については一言も書かれていない。1、000人とも8、000人とも言われる大虐殺にもかかわらず、である。韓国人はアジアの平和を語る資格などない。

 韓国人の欺瞞性・二重性を糾弾し9・2抗議行動へ結集を!

 韓国疑問史糾明委員会は去る6月28日、以下のアピールを発表した。

 
9月2日はベトナム民主共和国独立宣言がなされた日でもあり、祖国解放の志なかばでホーチミン大統領が逝去した日でもある。我が委員会はこの日、あくまでベトナム戦争における韓国軍のベトナム人虐殺を隠蔽しようとする韓国政府・韓国極右勢力に対し、抗議行動を行う予定である。韓国政府機関公式サイト、ベトナム参戦勇士(=戦争犯罪者)関連団体サイトなどに広く抗議メールを発送する他、放送局・新聞社・通信社のサイト掲示板にも韓国人の蛮行を広く知らせ、謝罪と反省を促す書き込みを掲載する予定である。韓国人のベトナム人蛮行に抗議するすべての方々は我が委員会の抗議行動に参加いただきたい。詳細は8月末、当ブログに掲載する予定である。


 韓国人は日本の歴史教科書の内容をとやかく言う前にベトナム人虐殺という蛮行を歴史教科書に記載せよ!9・2抗議行動に結集し、歴史を歪曲・隠蔽・捏造・糊塗する韓国人を弾劾しよう!

 2005年7月26日

 韓国疑問史糾明委員会
| gimonshi | 23:43 | comments(1) | trackbacks(2) | pookmark |
ニューズウィーク (5) 暴かれた英雄の犯罪
 『ニューズウィーク』(日本版、00年4月12日号)のレポート「暴かれた英雄の犯罪」から。

 
フーイェン省トラム村でも、66年3月14日に恐ろしい事件が起きた。韓国軍はベトコンの拠点とされるこの村に武器が隠されているという情報をつかみ、崔祐植(チェ・ウシク)率いる青龍部隊を派遣した。(中略)
・・・彼らは村に入り込んで、住民を空き地に集めた。だが、そのとき崔は落とし穴に落ち、同時に手榴弾が炸裂。4人の兵士が即死し、崔も爆弾の破片で負傷した。代わって指揮をとったアン・テフン軍曹は、その後の激しい銃撃戦のことをよく覚えている。
 部隊は計46人の民間人の命を奪った。「われわれは感情を抑えることができなかった。動くものはすべて撃った」と、アンは本誌に語った。「あのときは民間人もベトコンも同じに見えた」 だが、崔の記憶はいささか異なる。手榴弾の炸裂後、村では何事も起きなかった。だが救援のヘリコプターが到着し、村人が散り散りになると、急に隊員が発砲しはじめたという。とすると、発砲は報復措置だったのか。
 「その可能性もある」と、崔は言う。「恐怖心でいっぱいだったから、自衛のためだったのかもしれないが」
 大半の退役軍人にとって、こんな悪夢は悲惨なゲリラ戦の一部にすぎない。「ゲリラと民間人の区別はつかなかった」と、アンは言う。「私たちがあんなことをした事情も理解してほしい」
 駐ベトナム軍総司令官だった蔡命新(チェ・ミョンシン)は本誌に対し、彼の部隊が民間人に犠牲を出したことを認めている。だが、敵味方の区別が判然としないゲリラ戦ではやむをえないことだとも言う。戦場で正常な判断力が失われていた可能性も指摘する。
 ベトナム戦争最大の大虐殺といわれる68年のソンミ村の虐殺も「理解できる」と、蔡は語った。指揮をとった米軍のウィリアム・カリー中尉は「自分の仲間の死に対して、復讐しようとしたのだ」という。
 70年代前半に平和部隊に参加したアメリカ人、マイケル・ジョーンズらが行った調査には、韓国軍が20人以上の民間人を殺害したとみられる事件が45件記録されている。この調査書には「打ち首にし、腹を裂き、強姦して死にいたらせた」などと記されている。
 「(こんなことを)口にすると、世間から残忍な奴だと思われる」と元歩兵の金周煌(キム・ジュファン)は言う。「だからあまり語りたくない」
 金周煌はベトナムでの過去に対峙しようとしている、数少ない退役軍人の1人だ。彼と退役軍人仲間の金鍾チョル(キム・ジョンチョル)は先月、戦死した韓国兵と韓国軍に殺されたベトナム人犠牲者の霊をたたえる「和解の塔」の場所探しのため、かつての戦地に舞い戻った。2人は虐殺の行われたクアンガイ省の村々を訪問し、「私たちは傭兵として人々を殺した」と悔恨の情を伝えた。


 「打ち首」「腹を裂く」「強姦」・・・とても20世紀後半の正規軍の行為とは思えない。未開人の野蛮行為である。アメリカ民間人の調査でも「20人以上の虐殺が45件」確認されているのだから、少なくとも1、000人近くは虐殺していることになる。もちろん、こうした恥ずかしい行為は国粋的な韓国の歴史教科書に載せられるわけがない。大多数の韓国人はこうした歴史の真実を知らぬまま、あるいは知らぬふりをしたまま、「誇らしい韓国の歴史」あるいは「被害者としての韓国の歴史」のみを語り続けているのである。これが日本の歴史教科書を非難し続けている韓国人の真の姿である。

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| gimonshi | 21:05 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
ニューズウィーク (4) 暴かれた英雄の犯罪
 『ニューズウィーク』(日本版、00年4月12日号)は、ジョージ・ウェアフリッツ(東京支局長)、李炳宗(ソウル)の署名入りレポート「暴かれた英雄の犯罪 」を掲載している。その内容は「これまで韓国でタブーとされていた韓国軍によるベトナム人虐殺が民主化の影響を受けて明るみに出つつある」というものである。この見解の妥当性はともかくとして、このレポートにも韓国軍による野蛮行為を明らかにしている部分があるので、引用することにする。

 
・・・そんな韓国社会に変化がみえたのは昨年のこと。朝鮮戦争中にアメリカ兵が行った残虐行為が暴かれてからだ。以来、韓国人も自国の過去に目を向けはじめた。
 複数の人権擁護団体は韓国政府に対し、ベトナム戦争関連文書の公開とベトナム人被害者への補償を要請した。また具秀ジョン(ク・スジョン)がベトナムで資料収集にあたり、村人の証言を集めた結果、徐々に真相がわかってきた。8、000人以上の民間人を殺した韓国軍の虐殺行為の数々も、明らかにされた。 
 今年2月、KBSテレビは具の話をもとに、罪なき民間人を殺した元軍人が過去を語るドキュメンタリー番組を放送した。「村で娘を連れた若い男を見つけた」。苦悩に打ちひしがれた様子で、ある退役軍人は語った。「上官は私に、男を殺せと命じた。それも、7歳ぐらいの娘の目の前で。私にはどうしてもできなかった。すると、上官は2人とも殺してしまった」


 文中に見える「ク・スジョンの調査」については後に詳述するが、8、000人という虐殺の規模が判明したのは大きな成果と言えよう。まさに「大虐殺」と言ってもいい程の残虐行為である。
 こうした調査が行われて5年以上たっているが、状況に大きな変化はない。「派越勇士」と呼ばれる「ベトナム戦争参戦者=侵略者」は未だ韓国では「国家有功者」であり、顕彰の対象なのだ。彼らは韓国では有力な極右団体であり、強力な圧力団体なのである。

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| gimonshi | 10:07 | comments(0) | trackbacks(1) | pookmark |
蓬田良和『ベトナム戦争、韓国の痛み』(5)
 蓬田良和氏による虐殺に関するレポートは7月20日に紹介した内容が最後である。蓬田氏はこのレポートに付して次のように述べている。

 
ベトナム戦争に参加した韓国軍兵士は、彼の地の民間人を虐殺した。それはアジア太平洋戦争時の日本の姿と重なる。だからと言って日本が免罪されるわけではない。韓国も日本と同じことをした−そんな愚論を展開するよりも、自国の戦争犯罪にどう向き合い、どう謝罪するか。日本も韓国も問われているものは同じだ。

 ・・・でもディエン=タオ村およびハーミ村の虐殺を取り上げて、「韓国だってひどいことをしているのだから、お互いさまだ」と、日本人の戦争責任を相対化することはできない。


 韓国人がベトナム戦争で行った虐殺と日本が植民地下で行った悪行を同列に論じるなという主張である。もっとも至極な主張であるが、蓬田氏は韓国内で韓国軍の蛮行を語るのがタブーとなっており、「謝罪」「補償」などは一切行われておらず、歴史教科書にも一言の言及がないことを知っているのだろうか。(過去に大統領が訪問した際に謝罪めかした言辞を述べたことがあるが、韓国人が日本に求めている「謝罪」の水準からみれば、そんなものは謝罪に値しない。その謝罪に値しない言辞に対しても韓国国内では「謝罪する必要はない」「どうして謝罪したのか」などといった非難が行われているのである。)
 日本は曲がりなりにも「謝罪」を行い、借款という形にしろ「補償」を行い、歴史教科書にも朝鮮を植民地にしたことは記載している。かの扶桑社の歴史教科書ですら、日本軍の悪行については記載しているのである。「同列に論じる」ことによって困るのは韓国人のほうなのである。
 もともと、このレポートの元になった調査は「ピースボート」という市民団体(辻本清美らが関与)が主催した「春風アジアンクルーズ」という行事で行われたものである。(98年春に開催)こうした事情から韓国側に対する批判がましい記述は避けられているのだろうが、韓国での実情をあまりにも知らなさすぎると言わざるを得ない。

 当委員会も「韓国人の犬畜生にも劣る蛮行を明らかにすることで、日本の罪過を雪(そそ)ごう」などという意図をもっているわけではない。日本の罪過を声高に叫びたてながら、自らの所業は徹底して覆い隠す卑劣な韓国人を弾劾し、ひたすらに歴史の真実を糾明せんとするものである。

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| gimonshi | 10:49 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
蓬田良和『ベトナム戦争、韓国の痛み』(4) 「虐殺は忘れましょう」
 蓬田良和「ベトナム戦争、韓国の痛み」(『週刊金曜日』98年6月19日号)のレポートは続く。

 
チュン=ティ=トゥさん(60歳)は、ハーミの虐殺の際に家族12名を失って、自分と3ヶ月の子供だけが生き残った。 「韓国軍が家を取り囲んで、私の家族を殺しました。私は手榴弾で右足を切断されてしまい、その後は長い間、物乞いで生計を立てざるをえなかったのです
 ファン・ティ・ホアさん(71歳)は子ども2名を殺され、自身も両足を失った。
 「30年間、この事件のことを忘れることはまったくできなかった」と、泣きながら語った。カイさんは、「私はかすり傷ひとつ負わなかったけれども、母親と5名の兄弟を殺された。その立場からひとつ言いたいことがある」と前置きして語り始めた。
 「93年の2月頃、韓国から軍人29名がこの地に観光で来ました。そのなかにひとりの退役将校がいました。彼に事件のことを語ったとき、こんなふうに言われました。『その事件はもう過去のことだ。だから皆さんもそのことを理解してください』
 韓国とベトナム両国のいろんな外交的な問題もありましたし、ベトナム政府からも友好方針を重視せよという通達がありましたので、私たちは『理解します』と答えました。しかし、その退役将校からは、生き残った人々に対して一言の謝罪の言葉もありませんでした。・・・(後略)」


 日本の旧悪については60年たった今でも「謝罪しろ」「補償しろ」と騒ぎ立てている韓国人であるが、自分のしでかした悪行に対しては「忘れてください」の一言ですませ、おまけに謝罪の一言もないという卑劣漢ぶりである。ベトナム政府も韓国との外交的摩擦を避けるあまり、被害者の口を塞いでいるようであるが、こうした欺瞞は絶対に許してはならない。

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| gimonshi | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
蓬田良和『ベトナム戦争、韓国の痛み』(3)
 蓬田良和「ベトナム戦争、韓国の痛み」(『週刊金曜日』98年6月19日号)のレポートは続く。

 
そして2月24日の朝がきた。
 「朝7時、大勢の韓国軍がこの村にきて、すべての住民を三ヶ所に集めました。私たちはまた何か配ってくれるだろう、あるいは何かを知らせにきたのだろう、ぐらいにしか思っていなかったので、彼らの言うことに従いました。3ヶ所に集合し終えると、突然、韓国軍が銃と手榴弾を使って虐殺を始めました。野原の真っ只中で、トンネルの中で、一つの家に詰め込まれて。その家はグエン・ビンさんの家でしたが、一度に74名が集められ、外から銃や手榴弾をみまわれ、その後に放火されました
 カイさんは奇跡的に逃れることのできた9名と、その晩、村に戻ってきた。大勢の人が変わり果てた姿で横たわっていた。カイさんは手分けして埋葬した。
 「ところが、翌日になって韓国軍がブルドーザーなどを使って遺体をすべて掘り起こし、整地してしまったのです。ベトナムではお墓はとても大切なもの。けれども、そのお墓すら失ってしまった。遺体がどこにあるかもわかりません。私たちはこのことを思い出すたびに、心から血が出るほどの痛みを感じています。」


 このディエン・ズオン地区でも「非戦闘員を家や防空壕に詰め込んで射殺・爆殺・放火する」という野蛮行為が行われたことがわかる。おまけにここでもブルドーザーを使って墓暴きが行われていた。

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| gimonshi | 11:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
蓬田良和『ベトナム戦争、韓国の痛み』(2)
 蓬田良和「ベトナム戦争、韓国の痛み」(『週刊金曜日』98年6月19日号)。

 
ダナンから南西へ35キロメートルの地点にあるディエン=タオ村。67年1月30日、ここで145名のベトナム人が、韓国軍部隊によって虐殺された。数少ない生き残りの一人がマイおばあさんだった。トンネルに3時間ほど潜り、一命を取り留めたのだった。
 「虐殺の直後、生き残った村人は遺体を集めて埋葬しました。ところがその15日後、韓国兵がふたたびやってきて、埋葬地を見つけてブルドーザーで掘り起こしていったのです。そこで村人は腐りかけた死体をもう一度埋葬しなければなかったのです
 韓国軍がこのような行為に出たのは、解放戦線が使用していたトンネルがあるのでは、と疑ったからという。
 次に一行が訪れたのは、ディエン・ズオン地区。朱印船貿易時代(17世紀前半)に日本町があったことで知られるホイアンから、5キロほど離れたところにあある。
 この地区から3キロ離れたところに「ブルー=ドラゴン(青龍)」という韓国軍の旅団がいた。そして彼らによって2度の虐殺が行われた。1回目は68年2月24日、人口148名のハーミ村で。生存者はわずか9名だった。ホックンリンの教会で40名全員が殺された。生き残ったグエン=カイさんは、68年2月1日から23日までハーミ村の人々は駐留する韓国軍と平穏に暮らしていたという。たまには韓国軍からお菓子や食料などをもらうこともあったという。


 この証言によると韓国軍は虐殺をやらかしただけではなく、埋葬地を掘り返すなど墓暴きもしでかしていたことがわかる。もちろんこうしたことは韓国の歴史教科書には一言も書かれていない。

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| gimonshi | 11:18 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
蓬田良和『ベトナム戦争、韓国の痛み』(1)
 7月12日から16日まで本多勝一『戦場の村』の欺瞞的な内容を紹介したが、その本多が編集委員をつとめる『週刊金曜日』は韓国人によるベトナム人虐殺に関する記事を掲載したことがある。同誌98年6月19日号には、フリーライターの蓬田良和氏が『ベトナム戦争、韓国の痛み』と題するレポートを寄稿している。当委員会が保有する日本人によるレポートとしては最新のもので、非常に貴重である。

 
「この近所から、韓国の海兵隊がやってきました。それ以前にも大勢のアメリカの海兵隊が来ていましたが、挨拶するくらいで何も起こらなかった。だから韓国の兵隊も、アメリカとだいたい同じだろうと思っていたのですが・・・」
 ベトナム中部の都市・ダナンの郊外にあるディエン=タオ村。ベトナム春巻を包むライスペーパーがいくつも積み上げられている机を前に、トロン=ティ=マイさん(70)は31年前の忌まわしい記憶をたどり始めていた。
 韓国の海兵隊は手榴弾を投げ、虐殺を始めた。マイおばあさんの家では、彼女の両親を含めて4名が殺された。兄の嫁が1ヶ月の新生児を育てていたが、韓国兵士に銃殺され、兵士はその死体を持って壁に叩きつけた。韓国軍の兵士たちはガソリンを使って民家に火をつけてまわった・・・。


 これが本多が褒め称える「あたたかく親切」で「いたわりの心情」がにじみ出ている韓国軍の正体である。本多勝一は自分が編集している雑誌を呼んで反省せよ!

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| gimonshi | 13:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本多勝一『再訪・戦場の村』の変節
 本多勝一氏は『戦場の村』のもとになった取材を行った8年後、再びベトナムを訪れている。その取材結果は『再訪・戦場の村』(1975年)という著書にまとめられている。そこにはそんなことが書かれている。

 
韓国軍の去った村
 ・・・7月28日の午後、私たちはニャチャン市を出発してクァンガイ市に向かった。この道中は私にとって個人的にもたいへん感慨深いところだ。通過する3つの省−フーイェン、ビンディン、クァンガイの3省は、8年前のルポルタージュ『戦場の村』の主舞台である。フーイェン省の省都チュイホアからビンディン省の省都クイニョンにかけては韓国軍の「猛虎」「白馬」両師団が侵入・占領して各地で作戦を展開し、それよりも北では米軍が残虐きわまる掃討作戦と焦土化・住民強制移住をすすめていた。ソンミ事件をはじめとする無差別虐殺事件も、この一帯で多発した。
 チュイホア県をすぎて、韓国軍が掃討作戦を繰り返していた地域にはいる。1967年の猛虎師団による「烏鵲橋(ウーソツキョウ)作戦」や「洪吉童(ホンギルドン)作戦」で輸送基地になっていたカイ川の河口周辺は、すべての軍事的ガラクタが消えうせて、なにごともなかったかのように静かな田園となっている。・・・(中略)カイ川の南のやはり1号国道ぞいには、猛虎師団が建設したフージェム村の「新生活村」もあるはずだ。フーイェン省とビンディン省の境界のクーモン峠は、猛虎師団が「にぎりめし作戦」のエサで解放区の村人を「手なずけた」ところだ。クイニョンの北西のスオンミイ部落は、猛虎師団が反共のショーウィンドーとして作った実験的部落であった。


 この著書で本多氏は韓国軍を「侵略者」「外国侵略軍」などと表現している。しかし9年前に書いた著書で本多氏は次のように述べている。

 
クモン峠は、一昨年の夏米軍第101空挺師団が作戦して以来南の解放区と北の政府支配地区を分ける境界線だった。同年11月からここを引き継いだ猛虎師団は、南北朝鮮を分ける38度線にこの峠を見立てて、この市場を「板門店」と呼んだ。「板門店」で、解放区と政府側地区の民衆が自由に接するのを利用して、韓国軍は心理戦を思いついた。解放区に米が不足がちなのを知って、まず毎日50キロの飯をたき、市場にくる解放区の農民に食わせる。最初は受け取らなかったが、次第に食べ始めた。やがて診療所も開設して、1日平均100人前後の患者をみた。これが14ヶ月続けられたあと、侵攻に移ったのである。
 

 このような記述の後に、本多氏は「サイゴンをはじめ、韓国軍占領区以外の南ベトナム全土で、あれほどにも悪評と黒いうわさをきかされる韓国軍は実は一番神経をつかい、最も献身的にベトナム民衆につくしている」などと韓国軍を褒め称えているのである。それを8年後には「クーモン峠は、猛虎師団が『にぎりめし作戦』のエサで解放区の村人を『手なずけた』ところだ」などと述べている。8年間の間に何らかの「真相」を知ったための変節なのであろう。

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| gimonshi | 11:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本多勝一『戦場の村』(4)の欺瞞
 本多勝一は韓国軍幹部にもインタビューを試みているが、ここでも相手の言うことを全部鵜呑みにして、宣伝工作にのせられてしまっている。

 
・・・「あんまりほめてはいけません」と、猛虎師団の柳少将は完璧な日本語でいった−「若い兵隊は人間ですから、決して完璧ではありません。あやまちの例もかなりあります。でも、韓国軍の各兵卒が、おっしゃるように立派だとしたら、それは上からの命令や方針によるものではないと思います。各個人の自覚の問題です。各個人が、共産主義者との戦いの意味を本当に自覚しているのでなければ、この戦争はできません。信念の問題です」
 では、いったいなぜ、こんなにも評判が悪いのだろうか。
第一に、ベトコンの宣伝です」と師団長は答えた−「後方撹乱戦術です。同盟軍を分裂させようとするもくろみのひとつです。そして第二に嫉妬です
 韓国軍が非常に効果的に戦闘していることに対する外国軍隊のやきもち。それ以上に、ベトナム人の韓国人に対する嫉妬・・・。この「嫉妬」という師団長の指摘は、かなり当たっているようだ。私たち自身、よく韓国人と間違えられたとき、ベトナム人の示す反応にそれがあった。何でもない動作、たとえば米軍に従軍するとき、戦場用の軍服を着てサイゴンの飛行場に行くと、入り口付近にいるベトナムの青年などが「ダイハーン(韓国人)!」といいながらこちらを見るときの態度に、明らかに「軽蔑」という表現によって「嫉妬」をおしかくしている様子が読みとれた。
 

 当時「(本多の)おっしゃるような立派な兵卒」が虐殺や強姦をやらかしていたのだから皮肉なものである。韓国軍の悪評は決して「共産側のデマ」などによるものではない。こんなに簡単に韓国軍幹部の宣伝工作に納得してしまうのなら、「南京大虐殺」否定派を非難する資格などない。本多は『週刊金曜日』などでベトナム人に謝罪すべきであろう。

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| gimonshi | 09:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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