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アジアウェーブ(1) 私たちは人間ではなかった
東アジア・東南アジアに関するニュース・レポートを掲示している「アジアウェーブ」というサイトにベトナム戦争で虐殺を行った韓国人兵士へのインタビューが掲載されている。
 
 http://www.asiawave.co.jp/index.htm
 http://www.asiawave.co.jp/KyonSukkyon1.htm

「ベトナム戦争に参戦した韓国軍元兵士たち」慶淑顕

 ●キム・イルランさんの場合
国策としてのベトナム戦争 文通女性と結婚
 一九六〇年代の韓国は、GNP(国民総生産)が北朝鮮よりも低く、経済的に貧しい国だった。そんな時代背景のなか、韓国政府はベトナム参戦を決定し、派兵を推し進めていった。
 当時、韓国ではベトナム参戦についてのイメージをよくするために、様々な政策がとられた。その一つとして、女子学生や女性の会社員と、軍人の文通を奨励した。キム・イルランさん(五四歳)もそんな政策に乗ってベトナム戦争に参加し、文通で知り合った女性と結婚した一人だ。

 ●「猛虎部隊」の分隊長として
 苛烈な戦争体験
 キムさんもいま枯葉剤の後遺症で足や腰の痛みに苦しんでいる。顔には細かい血管が浮かびあがり、顔色はつねに赤らんでいる。彼は六六年から一年間、ベトナムの中部クイニョン市周辺で、韓国軍「猛虎部隊」の分隊長として戦った。
 ベトナムの人々にとって加害者だった彼は、帰国後、思いもしなかった枯葉剤の後遺症に苦しむことになった。消えることのない戦場での記憶を抱えて、加害者であると同時に被害者でもある、精神と身体の二重の傷に苦しみ続けている。
「帰国後は、ヘリコプターの音を聞くだけで身の毛がよだつようでした。ベトナムでは本当にいろんなことがあったから……」と、キムさんは静かに語る。
「寝て起きたら戦闘、そしてまた戦闘。その繰り返しです。すると、戦場で人を殺すことまでが、ストレス発散方法になりました。誰がいちばん早く人を撃ち殺すかで、ビールを賭けました。人の命で賭けをしていたのです……」 さらに戦場での記憶をたどって、彼は告白するように話し続けた。
「六六年九月から三カ月間、私はベトナム中部のフーカットというところで、『猛虎六号作戦』を行なっていました。ある村に二〇人ぐらいのベトコンがいるという情報を得たので行ってみたんです。それまでの戦闘で戦友がたくさん戦死したり負傷したりしていましたから、そのとき私たちは完全に頭に血が昇って狂ったようになっていました。村ではベトコンを探し出すのが難しくて、私たちは見せしめのために村長の娘を木に吊るして腹を切ったんです。それでも、村長は何も言わなかったので、二番目の娘も同じようにして殺したんです。そして、三番目の娘を吊るしたら、とうとう村長が口を開きました。こうやってベトコンを全部探し出して、村長も含めてそこにいた人たちを皆殺しにしました。こんなことは数えきれないくらいありました。私たちは人間ではなかったんです……」


 悪名高き猛虎師団の蛮行である。語るべき言葉を知らない。まさしく人間の所業とは思われない。この韓国軍元兵士は枯葉剤の被害者でもあるが、韓国人は韓国軍兵士の枯葉剤被害をけたたましく喧伝して、まるで韓国人がベトナム戦争の被害者であるかのように主張しているが、ベトナム人に与えた被害に対しては全く関心を払おうとしていない。

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| gimonshi | 09:24 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
ニューズウィーク(3) 「補償より謝罪を」
 『ニューズウィーク』(日本版、2000年4月12日)に掲載された韓国軍によるベトナム人虐殺のレポート。

 
・・・ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
 虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。
 ・・・(中略)さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
 「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」
 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。


 韓国軍はただ殺戮だけをしていたのではなかった。このレポートにもあるようにベトナム人婦女子を陵辱し、虐殺していたのである。そしてベトナム政府が、どこかの国の政府のように「謝罪と補償」を求めないことをいいことに、過去の罪過をついては口をつぐみ、「虐殺などなかった」と言い逃れ、札束の力でベトナム人の口を封じている。これが従軍慰安婦問題などで道徳の化身のごとく日本を非難し続けている韓国人の正体なのである。

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| gimonshi | 10:38 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
韓国疑問史研究委員会からのアピール
 韓国軍の蛮行を白日のもとに曝せ!

 ベトナム戦争に介入した韓国軍の畜類にも等しい蛮行によってなくなられたすべてのベトナムの方々に心から哀悼の意を表する。我が委員会の活動により、これまで隠蔽されてきた野蛮な韓国軍の暴虐ぶりが次々と明らかになりつつある。当委員会はこれからもさまざまな資料を公開し、韓国人の歴史隠蔽・史実歪曲に休むことなく筆誅を加えることをここに誓う。
 「日本人は歴史を歪曲している」などと日本の非を声高に訴えながらも、その陰で姑息な歴史隠蔽に励む韓国人の矛盾し破綻した態度と異なり、我が委員会は歴史究明と真実糾明という鉄火の中で自己を清め、韓国史の暗部を照らし出そうとするものである。

 9・2抗議行動への結集を!

 9月2日はベトナム民主共和国独立宣言がなされた日でもあり、祖国解放の志なかばでホーチミン大統領が逝去した日でもある。我が委員会はこの日、あくまでベトナム戦争における韓国軍のベトナム人虐殺を隠蔽しようとする韓国政府・韓国極右勢力に対し、抗議行動を行う予定である。韓国政府機関公式サイト、ベトナム参戦勇士(=戦争犯罪者)関連団体サイトなどに広く抗議メールを発送する他、放送局・新聞社・通信社のサイト掲示板にも韓国人の蛮行を広く知らせ、謝罪と反省を促す書き込みを掲載する予定である。韓国人のベトナム人蛮行に抗議するすべての方々は我が委員会の抗議行動に参加いただきたい。詳細は8月末、当ブログに掲載する予定である。

 韓国疑問史糾明委員会
| gimonshi | 00:43 | comments(0) | trackbacks(1) | pookmark |
ニューズウィーク(2) 首を切り落としてやる
『ニューズウィーク』(日本版、2000年4月12日)に掲載された韓国軍によるベトナム人虐殺のレポート。

 ・・・こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。・・・(中略)虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる


 レポートに書かれたフーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村の虐殺もこれまで見てきた虐殺の事例と同じように、婦女子や老人など非戦闘員を腹いせのために虐殺した事例である。特に「防空壕や井戸にベトナム人を押し込み手榴弾を投げ込む」という手口は、これまで判明したクァンガイ省ディエンニェン村の虐殺(66年10月)の手口と共通している。まさに犬畜生の所業と言わざるを得ない。

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| gimonshi | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ニューズウィーク(1)
『ニューズウィーク』(日本版、2000年4月12日)には韓国軍によるベトナム人虐殺のレポートが掲載された。「ロン・モロー(バンコク支局長)」という署名入りのこのレポートは、これまで紹介してきた日本人研究者の論著よりも、さらに凄惨な内容である。

 
今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。
 当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
 だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。
 トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。
 村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。
 そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。 トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。


 この虐殺の行われたフーイェン省はクァンガイ省と同じく、ベトナム中部の省である。ちなみに虐殺の行われたのは吉永長生氏が論文で明らかにした虐殺(66年10月)よりも半年ほど後である。
 ここでも韓国軍は「三光作戦」さながらに、老人であれ、婦女子であれ、幼児であれ、無抵抗のベトナム人を手当たり次第に殺戮していたことがわかる。これが日本人の非を声高にあげつらっている韓国人の正体なのである。

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| gimonshi | 20:07 | comments(0) | trackbacks(1) | pookmark |
吉永長生『朝鮮研究』(3)
 アン・ハイの証言の続き。

 
数分后、我々は何発かの銃声を聞き、彼らが地方的なゲリラと遭遇したのだと想像した。戦闘が彼らを怒らせたにちがいない。何故なら彼らはアント村で7人の少年と1人の老人を防空壕に入らせて、うしろから手榴弾を投げ込んだのだから。8人のうち3人だけ息をふき返し、あとで話してくれたのだ。 
 その日の午后、私とディエンニェン村の大部分の住民はヌィトゥロンの以下の上の分遣隊のそばに行き、韓国軍が作戦を終えるまでそこにとどまった。しかし50人以上おそらく100人近くの婦人と子供は家にとどまっていた。夕方、韓国兵はまたアント村に戻ってきて、この人々を一ヶ所に集めた。彼らは子供たちに韓国の菓子を与えた。それから機関銃と手榴弾で彼ら全員を殺した。彼らは死体の山を残していった。生き残った者はいなかった。我々が彼らが菓子を与えたことを知ったのは、2日後に村に下りて行った男が死体を発見し、死んだ子供の手と口に菓子が残っているのを発見したからだ。


 韓国人の中には「ベトナム戦争はゲリラと住民との区別がつかない特殊な戦争であった」などと言って、ベトナム人住民虐殺を合理化しようとする輩がいる。しかし、アン・ハイの証言で明らかなように明らかな非戦闘員と分かっていながら、または単なる腹いせのために住民を虐殺した例があるのだ。菓子を与えて懐柔し、その上で射殺するなどという手口は、韓国軍の卑劣さと残虐さを余すところなく伝えていると言えるだろう。 韓国人は「南京大虐殺」「三一独立運動弾圧」などにおける日本軍の蛮行を非難しながらも、自分らがしでかしてきたこのような鬼畜の所業については一切口を拭って知らぬふりをしている。

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| gimonshi | 11:28 | comments(0) | trackbacks(1) | pookmark |
吉永長生『朝鮮研究』(2)
アン・ハイの証言は続く。

 彼ら(韓国軍−引用者)は村に着くと、全住民に一ヶ所に集まるように命じた。彼らのできるベトナム語はディ・ディ(行け行け)だけだった。通訳はいなかった。彼らは群集の中から15位になっている少年を引っぱりだし、一列に並ばせ、他の人々から数ヤード離れたところに座らせた。かれらは列の一方の端にいた13才の少年を人々に向かって立たせ、韓国語で若干の質問をした。もちろん、彼も他の誰も何を言っているのか分からなかった。数分后彼が答えられないのをみて彼らは彼を一方の墨に連れていき、彼を射ち、死体を穴に投げ込んだ。 これから彼らは二番目の少年を引き出し彼を猛烈に殴ってから「英語が話せるか」と尋ねた。私は学校で少し習ったことがあるので、名乗り出た。韓超辞典とわずかな英語をたよりに、私は、私の名前や年齢や住む村についての彼らの質問に答えた。しかし、私が「ベトコンの司令部がどこにあるかは知らない」と答えたとき、彼らはのどに銃口ををあてた。
 もしその時、すぐ近くのヌィトゥロンの分遣隊の隊長が韓国人顧問とともに姿をあらわさなかったら、私は死んでいただろう。彼らはこもごもに、韓国兵たちに、ディエンニェン村民には「ベトコン」はいないし、分遣隊のベトナム軍の管轄下にあるのだと語った。それで韓国兵はアント村の方に立ち去った。

 ここで言及されている「ヌィトゥロンの分遣隊の隊長」とは南ベトナム軍の下士官であろうと思われる。それにしても通訳も連れず、ベトナム人にいきなり韓国語で話しかけ、答えられないとなるといきなり射殺するとは、人間の行いとは思われない。鬼畜の所業である。

 この事件の起こったクァンガイ省とは、アメリカ軍による「ソンミ村の虐殺」でも有名であるし、早乙女勝元の著書『ベトナムのダーちゃん』の故郷でもある。
 参考までにクァンガイ省のホームページ住所を記しておく。

 http://www.vnn.vn/province/quangngai/

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| gimonshi | 17:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
吉永長生『朝鮮研究』(1)
 ベトナム戦争における韓国軍の残虐行為を扱った日本側資料は決して多くはない。これまで言及してきた亀山旭、吉沢南、そしてここで紹介する吉永長生の論著が代表的なものなのである。
 吉永長生氏の論文は『朝鮮研究』139号(1974年9・10月号)に掲載された。『朝鮮研究』という雑誌は、あの『現代コリア』・・・北朝鮮による拉致被害者の救出運動の先鋒に立つ現代コリア研究所(佐藤勝巳氏主宰)が出している雑誌『現代コリア』の前身である。
 吉永長生の論文は韓国軍のベトナム人虐殺のみを扱ったものではなく、韓国が派兵に踏み切るまでの経緯、韓国国内の世論、派兵による経済効果までを丁寧に記述していて、韓国軍のベトナム派兵を考えるにおいて必読の資料であると言えよう。

 ・・・さらに、実は、アメリカ軍自体が、すでに1966年にランド・コーポレーションをして、韓国軍の蛮行を調査させ、報告書を入手していながら、反響を恐れて極秘に付していたということを暴露し、その報告書の公表をせまった。また独自の調査を組織し、ベトナムでの直接聴取による具体的事実の系統的収集を行った。
 私にそのようなレポートの一部を手渡してくれた人の意に沿うためにも、紙数の制約上ここに多くの事例のなかから冒頭の一例だけでも訳出・紹介しておきたい。・・・(中略)

 1966年8月以降青竜部隊が駐屯していったクァンガイ市から遠くなく、国道一号線から数キロのところにあるソンロク村に住んでいたアン・ハイの証言。・・・(中略)1966年10月9日、私はたった15才の頃だったが、私の家から遠くないディエンニェン村の友達を訪ねていた。われわれは多数の軍人が徒歩で近づいてくるのをみたが、ベトナム政府軍だと思って遊び続けていた。まだ田畑に出かけていなかった大人の男たちは身をかくした。残った我々は恐れなかった。何故ならベトナム人やアメリカ人の兵隊が我々の村にやって来た時に民衆を傷つけたことはなかったから。この軍隊が韓国軍であると気づいた時には、もう隠れようとしても遅かった。

 
 アン・ハイの証言はなおも続くが、それは次回に譲る。アン・ハイの証言は虐殺の日時を明らかにしている点で非常に貴重であるし、亀山・吉沢のように伝聞や加害者側からの聴取ではないという点でいっそう重要である。

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 韓国疑問史糾明委員会では皆様からの情報をお待ちしております。「韓国軍による残虐行為を記した資料を持っている」「韓国軍の残虐行為に関する情報を見聞きした」あるいは「ベトナムで韓国兵から直接被害を受けた」「ベトナムで残虐行為に加担した」方からの情報をお待ちしています。

 gimonshi@yahoo.co.jp

 吉永南氏の調査については「吉沢南氏の調査」というカテゴリにまとめておくので参照されたい。なお吉沢南氏の調査の出処は『ベトナム戦争の記録』(大月書店、1988年)であった。お詫びして訂正させていただく。
| gimonshi | 10:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
吉沢南氏の調査(6)
 吉沢南氏の調査には(ご多分に漏れず)「ベトナム人は韓国軍を慕っていた」「虐殺などなかった」などという輩が登場し、韓国軍のしでかした残虐行為を隠蔽するのに躍起となっている。

 ・・・元兵士の多くは、ベトナム民衆が韓国兵を歓迎していた、と述べている。その代表的な意見として、将校のIさんの話を紹介しよう。
 ・・・(中略)「われわれは彼らによく説明したものだ。韓国は朝鮮戦争で打撃を受けたが、いまは復興している。そこで、ベトナムの復興のために助けにきた、と。ベトナムの民衆はそれを聞いて、喜んでいた。一口に言って、ベトナムは未開の国だ。民衆の家はドロでできていて、ぼろぼろだった。前に言ったように貧富の差がはげしかった。それに住民は怠け者だった。農業を一生懸命やらないし、正午から2時までは昼寝した。商売上手のやつはいたがね」

 つまり、ベトナム人は貧乏で未開な劣等国だったから、韓国人が行って助けてやり、ベトナム人はそれを喜んでいたというものだ。韓国人は「朝鮮は貧乏で未開な劣等国だから、日本が保護してやり、朝鮮人はそれを喜んでいた」などという日本人の発言には激怒するが、自分はまったく同じことを言っているのである。未開であろうが、貧しかろうが、アメリカ人や韓国人に虐殺されたり強姦されるよりはましであろう。

 「アメリカ人よりも韓国人のほうが人気があったと思う。東洋人で、肌の色が同じだったから、違和感がなかったのだろう。また、南北に分かれているので、親しい感情をもったのだろう。それに韓国軍は対民活動をよくやった。民衆には気をくばった。100人のベトコンを捕まえられなかったとしても、ひとりの無罪の人を犠牲にするようなことをしたくなかった。韓国人は心やさしい」

 「韓国兵がアメリカ兵より嫌われていた」ことは亀山旭氏の著書で見たとおりである。(亀山旭『ベトナム戦争』[6])参照)「無罪の人を犠牲にするようなことをしたくなかった」「心やさしい」韓国人が女性の乳房を切り取ったり、勝手に捕虜を銃殺するような極悪非道の振る舞いをしていたのである。この将校はベトナム戦争の敗因を南ベトナムの腐敗ぶりに結び付けてもいる。

 「ベトナム(南ベトナム政権)はなぜ敗北してしまったのか。国民精神が腐っていた。貧しい人はますます貧しく、豊かな人はますます豊かになった。・・・(中略)農民は上の人に搾取されていた。稲は年に3回収穫できたが、それでも搾取されていたので農民は貧しかった。」

 そういう腐敗堕落した南ベトナム政権を支えるために韓国軍は派兵されたのではなかったのか。南ベトナムの腐敗とともにアメリカ兵・韓国兵の蛮行が南ベトナム民衆の民心を失わせる結果になったという点にはまったく気づいていないようである。驚くべきことに、この将校のような「南ベトナムが腐敗していたから敗北した」という「責任転嫁」は現在の韓国政府の公式見解でもあるのだ。これについては後述する。

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| gimonshi | 10:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
吉沢南氏の調査(5)
 吉沢南氏が明らかにしているのは女性・子供など非戦闘員の虐殺だけではない。捕虜の虐殺もある。

 ・・・捕虜の処遇については、Hさんの別な証言がある。・・・(中略)「(捕虜を尋問したことがあるか?)大作戦のあとで、捕虜収容所に一度行ったことがある。そこで、そのひとりが悪い人(ベトコン)だったので、彼を尋問した。殺すと脅しても黙って口を割らない。決して話さない。そのことがとても不思議だった。韓国人なら自分の利益になれば、しゃべってしまうだろう。だけどベトナム人はちがう。イデオロギーがあれば沈黙かもしれない。ところが、黙って死んだほうが、まわりの人に迷惑もかけない、そう考えたのか、わびもしなければ、助けも求めずに死んでいった。なぜなのか、不思議でならない」
 「(尋問した捕虜はどうなったのか?)銃殺することになった。尋問したのが私だから、殺せと命じられた。しかし殺せなかった。ちょうど、後方にいたある分隊が、ベトコンに戦友を一人殺された復讐のために捕虜の銃殺を申し出たので、それにまかせた。ジープが来て連れていった。あとで聞いた話によると、そのベトコンは銃殺する場所に着くと、掘ってあった墓穴に自分からスタスタ歩いて入ってしまったということだ。まったく反抗しなかったそうだ。」

 最小限の司法手続きも取らず、「味方が殺されたから」という私怨で非戦闘員である女性の乳房を切り取ったり(吉沢南氏の調査[4]参照)、尋問した捕虜を銃殺するという蛮行がまかり通っていたことが分かる。韓国人の非難してやまない「日本軍の蛮行」と何らの差はない。
 吉沢南氏は韓国軍がこうした残虐行為を隠蔽するための事後工作を行っていたという証言も得ている。これは大きな成果である。

 ・・・「われわれは外国で戦争をやってきたんだ。帰国しても、帰宅はすぐには許されなかった。4日間教育させられた。精神教育だった。外国でやったことについて一切口外するな、と徹底的に教育された。

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 ブログ開設2週間目にして熱烈なる10、000アクセスありがとうございました。今後も韓国現代史の暗部を照らし出す、韓国疑問史糾明委員会の活動に熱いご支援をよろしくお願いします。
| gimonshi | 09:52 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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