ハンギョレ21・285号
2006.03.17 Friday | category:ハンギョレ21
韓国の時事週刊誌『ハンギョレ21』(285号)は韓国の小説化がベトナム戦争における韓国人の蛮行に関する小説を発表したという記事を掲載している。「ベトナム作家の見た民衆虐殺」と題するレポートを全文翻訳掲載する。以下に引用するのはベトナム人小説家がハンギョレ21記者に送った手紙の内容である。
「壕に手榴弾を投げ込む」「婦女子を撃って腹を割き腸を取り出す」「火をつける」・・・お決まりの韓国軍の虐殺スタイルである。「青龍」という具体的な旅団名が出ていることは貴重である。こうした鬼畜の所業をおこなった韓国人どもは今も韓国で「勇士」などと奉られ、ベトナム民衆の苦しみをよそにのうのうと暮らしているのである。
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次に掲げるのは彼が送ってくれた手紙の全文である。
ダナンから南に約20kmほど、ビンディエン村とディエンタン社(県の下の行政単位。行政村─引用者)の間の国道1号線から眺めれば、野原に一本だけ立っている大きなアキグミの木が目に入ってきます。まさにここで今から31年前、米軍のミルライ住民虐殺と比べてその規模や程度で決して劣らない、まさに驚愕に値する住民虐殺があったという事実を知っている人は多くありません。1968年1月14日(旧暦)、ホイアン駐屯の青竜旅団所属の1個中隊がクァンド省(現在のクァングナム省)ディエンアン社ポンニ村ロプナム部落に押しかけてきて、ベトコンかどうかの確認もなしに壕を捜索して手榴弾を投げこみ、家さえ見れば火をつけて子供、婦女子、老人を問わず、人さえ見れば銃で撃った後、腹を割って膓を取り出し死体を火の中に投げこみました。彼らはまた一部の女性と子供達を1ヶ所に集めた後、集団虐殺を行ないました。そのようにして100人に近い人々が殺されました。ポンニ村とポン村は火と血に彩られました。
完全な姿をしている死体は一つもありませんでした。家族や知人でも死体を見分けることができなかったでしょう。悲憤にかられた付近の村の住民たちは死体を担いで(韓国軍の─引用者)警戒所に押しかけました。家はすっかり焼けて灰しか残らず、死体を包む毛布もハンモックもありませんでした。箱と竹かご、うつわなどにバラバラになった死体を拾い集めました。韓国の兵隊たちは警戒所の門にかんぬきを差して防ぎましたが、住民たちはコンチョイダオからウンオクタムまで国道1号線の両側に1キロ以上にわたって死体を並べました。
「壕に手榴弾を投げ込む」「婦女子を撃って腹を割き腸を取り出す」「火をつける」・・・お決まりの韓国軍の虐殺スタイルである。「青龍」という具体的な旅団名が出ていることは貴重である。こうした鬼畜の所業をおこなった韓国人どもは今も韓国で「勇士」などと奉られ、ベトナム民衆の苦しみをよそにのうのうと暮らしているのである。
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