吉永長生『朝鮮研究』(3)
2005.06.25 Saturday | category:吉沢長生『朝鮮研究』
アン・ハイの証言の続き。
韓国人の中には「ベトナム戦争はゲリラと住民との区別がつかない特殊な戦争であった」などと言って、ベトナム人住民虐殺を合理化しようとする輩がいる。しかし、アン・ハイの証言で明らかなように明らかな非戦闘員と分かっていながら、または単なる腹いせのために住民を虐殺した例があるのだ。菓子を与えて懐柔し、その上で射殺するなどという手口は、韓国軍の卑劣さと残虐さを余すところなく伝えていると言えるだろう。 韓国人は「南京大虐殺」「三一独立運動弾圧」などにおける日本軍の蛮行を非難しながらも、自分らがしでかしてきたこのような鬼畜の所業については一切口を拭って知らぬふりをしている。
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数分后、我々は何発かの銃声を聞き、彼らが地方的なゲリラと遭遇したのだと想像した。戦闘が彼らを怒らせたにちがいない。何故なら彼らはアント村で7人の少年と1人の老人を防空壕に入らせて、うしろから手榴弾を投げ込んだのだから。8人のうち3人だけ息をふき返し、あとで話してくれたのだ。
その日の午后、私とディエンニェン村の大部分の住民はヌィトゥロンの以下の上の分遣隊のそばに行き、韓国軍が作戦を終えるまでそこにとどまった。しかし50人以上おそらく100人近くの婦人と子供は家にとどまっていた。夕方、韓国兵はまたアント村に戻ってきて、この人々を一ヶ所に集めた。彼らは子供たちに韓国の菓子を与えた。それから機関銃と手榴弾で彼ら全員を殺した。彼らは死体の山を残していった。生き残った者はいなかった。我々が彼らが菓子を与えたことを知ったのは、2日後に村に下りて行った男が死体を発見し、死んだ子供の手と口に菓子が残っているのを発見したからだ。
韓国人の中には「ベトナム戦争はゲリラと住民との区別がつかない特殊な戦争であった」などと言って、ベトナム人住民虐殺を合理化しようとする輩がいる。しかし、アン・ハイの証言で明らかなように明らかな非戦闘員と分かっていながら、または単なる腹いせのために住民を虐殺した例があるのだ。菓子を与えて懐柔し、その上で射殺するなどという手口は、韓国軍の卑劣さと残虐さを余すところなく伝えていると言えるだろう。 韓国人は「南京大虐殺」「三一独立運動弾圧」などにおける日本軍の蛮行を非難しながらも、自分らがしでかしてきたこのような鬼畜の所業については一切口を拭って知らぬふりをしている。
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吉永長生『朝鮮研究』(2)
2005.06.24 Friday | category:吉沢長生『朝鮮研究』
アン・ハイの証言は続く。
彼ら(韓国軍−引用者)は村に着くと、全住民に一ヶ所に集まるように命じた。彼らのできるベトナム語はディ・ディ(行け行け)だけだった。通訳はいなかった。彼らは群集の中から15位になっている少年を引っぱりだし、一列に並ばせ、他の人々から数ヤード離れたところに座らせた。かれらは列の一方の端にいた13才の少年を人々に向かって立たせ、韓国語で若干の質問をした。もちろん、彼も他の誰も何を言っているのか分からなかった。数分后彼が答えられないのをみて彼らは彼を一方の墨に連れていき、彼を射ち、死体を穴に投げ込んだ。 これから彼らは二番目の少年を引き出し彼を猛烈に殴ってから「英語が話せるか」と尋ねた。私は学校で少し習ったことがあるので、名乗り出た。韓超辞典とわずかな英語をたよりに、私は、私の名前や年齢や住む村についての彼らの質問に答えた。しかし、私が「ベトコンの司令部がどこにあるかは知らない」と答えたとき、彼らはのどに銃口ををあてた。
もしその時、すぐ近くのヌィトゥロンの分遣隊の隊長が韓国人顧問とともに姿をあらわさなかったら、私は死んでいただろう。彼らはこもごもに、韓国兵たちに、ディエンニェン村民には「ベトコン」はいないし、分遣隊のベトナム軍の管轄下にあるのだと語った。それで韓国兵はアント村の方に立ち去った。
ここで言及されている「ヌィトゥロンの分遣隊の隊長」とは南ベトナム軍の下士官であろうと思われる。それにしても通訳も連れず、ベトナム人にいきなり韓国語で話しかけ、答えられないとなるといきなり射殺するとは、人間の行いとは思われない。鬼畜の所業である。
この事件の起こったクァンガイ省とは、アメリカ軍による「ソンミ村の虐殺」でも有名であるし、早乙女勝元の著書『ベトナムのダーちゃん』の故郷でもある。
参考までにクァンガイ省のホームページ住所を記しておく。
http://www.vnn.vn/province/quangngai/
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彼ら(韓国軍−引用者)は村に着くと、全住民に一ヶ所に集まるように命じた。彼らのできるベトナム語はディ・ディ(行け行け)だけだった。通訳はいなかった。彼らは群集の中から15位になっている少年を引っぱりだし、一列に並ばせ、他の人々から数ヤード離れたところに座らせた。かれらは列の一方の端にいた13才の少年を人々に向かって立たせ、韓国語で若干の質問をした。もちろん、彼も他の誰も何を言っているのか分からなかった。数分后彼が答えられないのをみて彼らは彼を一方の墨に連れていき、彼を射ち、死体を穴に投げ込んだ。 これから彼らは二番目の少年を引き出し彼を猛烈に殴ってから「英語が話せるか」と尋ねた。私は学校で少し習ったことがあるので、名乗り出た。韓超辞典とわずかな英語をたよりに、私は、私の名前や年齢や住む村についての彼らの質問に答えた。しかし、私が「ベトコンの司令部がどこにあるかは知らない」と答えたとき、彼らはのどに銃口ををあてた。
もしその時、すぐ近くのヌィトゥロンの分遣隊の隊長が韓国人顧問とともに姿をあらわさなかったら、私は死んでいただろう。彼らはこもごもに、韓国兵たちに、ディエンニェン村民には「ベトコン」はいないし、分遣隊のベトナム軍の管轄下にあるのだと語った。それで韓国兵はアント村の方に立ち去った。
ここで言及されている「ヌィトゥロンの分遣隊の隊長」とは南ベトナム軍の下士官であろうと思われる。それにしても通訳も連れず、ベトナム人にいきなり韓国語で話しかけ、答えられないとなるといきなり射殺するとは、人間の行いとは思われない。鬼畜の所業である。
この事件の起こったクァンガイ省とは、アメリカ軍による「ソンミ村の虐殺」でも有名であるし、早乙女勝元の著書『ベトナムのダーちゃん』の故郷でもある。
参考までにクァンガイ省のホームページ住所を記しておく。
http://www.vnn.vn/province/quangngai/
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吉永長生『朝鮮研究』(1)
2005.06.23 Thursday | category:吉沢長生『朝鮮研究』
ベトナム戦争における韓国軍の残虐行為を扱った日本側資料は決して多くはない。これまで言及してきた亀山旭、吉沢南、そしてここで紹介する吉永長生の論著が代表的なものなのである。
吉永長生氏の論文は『朝鮮研究』139号(1974年9・10月号)に掲載された。『朝鮮研究』という雑誌は、あの『現代コリア』・・・北朝鮮による拉致被害者の救出運動の先鋒に立つ現代コリア研究所(佐藤勝巳氏主宰)が出している雑誌『現代コリア』の前身である。
吉永長生の論文は韓国軍のベトナム人虐殺のみを扱ったものではなく、韓国が派兵に踏み切るまでの経緯、韓国国内の世論、派兵による経済効果までを丁寧に記述していて、韓国軍のベトナム派兵を考えるにおいて必読の資料であると言えよう。
・・・さらに、実は、アメリカ軍自体が、すでに1966年にランド・コーポレーションをして、韓国軍の蛮行を調査させ、報告書を入手していながら、反響を恐れて極秘に付していたということを暴露し、その報告書の公表をせまった。また独自の調査を組織し、ベトナムでの直接聴取による具体的事実の系統的収集を行った。
私にそのようなレポートの一部を手渡してくれた人の意に沿うためにも、紙数の制約上ここに多くの事例のなかから冒頭の一例だけでも訳出・紹介しておきたい。・・・(中略)
1966年8月以降青竜部隊が駐屯していったクァンガイ市から遠くなく、国道一号線から数キロのところにあるソンロク村に住んでいたアン・ハイの証言。・・・(中略)1966年10月9日、私はたった15才の頃だったが、私の家から遠くないディエンニェン村の友達を訪ねていた。われわれは多数の軍人が徒歩で近づいてくるのをみたが、ベトナム政府軍だと思って遊び続けていた。まだ田畑に出かけていなかった大人の男たちは身をかくした。残った我々は恐れなかった。何故ならベトナム人やアメリカ人の兵隊が我々の村にやって来た時に民衆を傷つけたことはなかったから。この軍隊が韓国軍であると気づいた時には、もう隠れようとしても遅かった。
アン・ハイの証言はなおも続くが、それは次回に譲る。アン・ハイの証言は虐殺の日時を明らかにしている点で非常に貴重であるし、亀山・吉沢のように伝聞や加害者側からの聴取ではないという点でいっそう重要である。
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韓国疑問史糾明委員会では皆様からの情報をお待ちしております。「韓国軍による残虐行為を記した資料を持っている」「韓国軍の残虐行為に関する情報を見聞きした」あるいは「ベトナムで韓国兵から直接被害を受けた」「ベトナムで残虐行為に加担した」方からの情報をお待ちしています。
gimonshi@yahoo.co.jp
吉永南氏の調査については「吉沢南氏の調査」というカテゴリにまとめておくので参照されたい。なお吉沢南氏の調査の出処は『ベトナム戦争の記録』(大月書店、1988年)であった。お詫びして訂正させていただく。
吉永長生氏の論文は『朝鮮研究』139号(1974年9・10月号)に掲載された。『朝鮮研究』という雑誌は、あの『現代コリア』・・・北朝鮮による拉致被害者の救出運動の先鋒に立つ現代コリア研究所(佐藤勝巳氏主宰)が出している雑誌『現代コリア』の前身である。
吉永長生の論文は韓国軍のベトナム人虐殺のみを扱ったものではなく、韓国が派兵に踏み切るまでの経緯、韓国国内の世論、派兵による経済効果までを丁寧に記述していて、韓国軍のベトナム派兵を考えるにおいて必読の資料であると言えよう。
・・・さらに、実は、アメリカ軍自体が、すでに1966年にランド・コーポレーションをして、韓国軍の蛮行を調査させ、報告書を入手していながら、反響を恐れて極秘に付していたということを暴露し、その報告書の公表をせまった。また独自の調査を組織し、ベトナムでの直接聴取による具体的事実の系統的収集を行った。
私にそのようなレポートの一部を手渡してくれた人の意に沿うためにも、紙数の制約上ここに多くの事例のなかから冒頭の一例だけでも訳出・紹介しておきたい。・・・(中略)
1966年8月以降青竜部隊が駐屯していったクァンガイ市から遠くなく、国道一号線から数キロのところにあるソンロク村に住んでいたアン・ハイの証言。・・・(中略)1966年10月9日、私はたった15才の頃だったが、私の家から遠くないディエンニェン村の友達を訪ねていた。われわれは多数の軍人が徒歩で近づいてくるのをみたが、ベトナム政府軍だと思って遊び続けていた。まだ田畑に出かけていなかった大人の男たちは身をかくした。残った我々は恐れなかった。何故ならベトナム人やアメリカ人の兵隊が我々の村にやって来た時に民衆を傷つけたことはなかったから。この軍隊が韓国軍であると気づいた時には、もう隠れようとしても遅かった。
アン・ハイの証言はなおも続くが、それは次回に譲る。アン・ハイの証言は虐殺の日時を明らかにしている点で非常に貴重であるし、亀山・吉沢のように伝聞や加害者側からの聴取ではないという点でいっそう重要である。
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韓国疑問史糾明委員会では皆様からの情報をお待ちしております。「韓国軍による残虐行為を記した資料を持っている」「韓国軍の残虐行為に関する情報を見聞きした」あるいは「ベトナムで韓国兵から直接被害を受けた」「ベトナムで残虐行為に加担した」方からの情報をお待ちしています。
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吉永南氏の調査については「吉沢南氏の調査」というカテゴリにまとめておくので参照されたい。なお吉沢南氏の調査の出処は『ベトナム戦争の記録』(大月書店、1988年)であった。お詫びして訂正させていただく。
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